
菅生石部神社
御願神事
その他
テーマ:神社
紹介
編集御由緒 菅生石部神社( すごういそべじんじゃ)菅生社、菅生天神、敷地天神などともよばれる。 敏達天皇の願いにより、宮中でお祀りしていた神様を用明天皇ご即位元年(585)この地にお遷ししたことにはじまる。 延喜式内社であり、中世に越前國三ノ宮、のちに加賀國二ノ宮(一ノ宮は白山比咩神社)となる。明治期には國幣小社に列せられた。 中世のころこの地(福田庄)が京都・北野天満宮領となることから天神信仰も盛んとなり、別名菅生社、菅生天神や敷地天神とよばれ、加賀や越前に住む人々から篤い崇敬を受ける。 中でも斎藤氏(全国の斎藤氏の祖)は、当社を氏神として大変崇敬した。後に美濃の目代として赴任する際、自らの守護神として美濃各地に当社天神様をお祀りした。美濃國の天神社、天満宮 全17社は当社より勧請された社。この後斎藤氏は、美濃からさらに全国へと広がっていきます。 京都市北区敷地神社(わら天神)、鯖江市河和田の敷山神社など関係の社がある。 また、朝廷のご崇敬も篤く、伏見天皇(1287~1298)の頃より正親町天皇(1557~1586)の頃まで春秋年2回の居入祭(おりいさい)に朝廷より御衣・神 宝がお供えになった。現在、居入祭の文書や皇子ご降誕の文書等が残っている。木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉や前田利家はじめ前田家による寄進や奉納も多くあった。現在その多くが宝物として残り、珠姫(天徳院、徳川家康の孫)のお輿入れ道具など一部国重要文化財となっている。
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